更新された「ボク。」を読みました。
いつだったか、ヤスがMCで「花であれ」が好きだと言った、とどこかで読んだとき、
「わ!わたしもあの曲大好き!気が合うねヤス!」
くらいに思っていたのですけども。
「ボク。」を読んで、あーーーーーーーーーとなりました。
わたしも本当に「花であれ」が好きで。
(「花であれ」っていう、まんまのタイトルの記事も書いてるくらい)
で、これまでどうしてもあの曲が聞きたくなるときは、決まって体が尋常じゃないくらいしんどいときでした。
自分の足で歩く、自分の好きなものを食べる、自分の欲しいものを買う。自分のしたいことをする。
こういった『自分の意思で何かをする』ってなんて贅沢なことなんだろう、って思ってるとき。
しかもその状態がいつまで続くのかわからない。先の見えないトンネルにいるみたい。
仕事場に向かうバスの中。本当は起き上がれる状態じゃない。しんどい。心が折れそう。
歩くのもやっと。いつ倒れてもおかしくない。
この先ずっとこうなのかな。
ほんとはね、もっとちゃんと仕事がしたいんだ。でも体が言うこと聞いてくれないんだ。
自分を励ますために、通勤のバスを降りて空を見上げながら、何度も何度も「花であれ」を聞きました。
だからこの曲がかかると、バス停最寄のコンビニから会社までの風景が自動的に蘇ってくる。
ヤス、本当にしんどいんだな。
昔のわたしは、病気は基本『完治するもの』だと思っていました。
今のわたしは、病気は(一部を除いて)『つきあっていくもの』だと思ってます。
完全に罹患する前と同じに戻ることはないんだよなあ。
一見戻ったように見えても、そう見せるために時間やお金や気力をたくさん割かなければならなかったり。
(先週の大阪遠征で痛感したんだけど、年々持参しなきゃいけない薬が増えてる 爆)
身ひとつでふらっと旅に出る、とかは今はもう絶対に無理なんですよね。
そのことを切ないと思う自分がもちろんいて。
もう一方で、あ、こういうアプローチならできるんだ、って喜んだりする自分もいる。
前と同じに戻ることはできない。
諦めたこと(もの)もたくさんあった。
きっとこれからもあるでしょう。
執着を手放すのに必死だった時。
きっとこれからもそういう時期がくるでしょう。
気持ちは揺れ動く。からだも揺れ動く。
自分の体とつきあっていくということは、揺れ動きの繰り返しを受け止めることなんだろうなあと。
でもなかなか受け止められないんだよ。
わたしは「ボク。」を読んで「ヤスは強いね」って簡単に言えない。
理由はうまく説明できないんだけど。
今はただただ、今のヤスの周りを、そしてヤスのこの先を、優しい光が包むことを祈っています。
そしてあなたが笑顔でいられる時間が少しでも増えることを祈っています。
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「ボク。」を読んで。自分のからだとつき合っていくということ
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